2008.01.08
「ウェブ時代をゆく」と小林秀雄
昨年末のブログで書いた通り、この正月休み後半に読み始めた梅田 望夫氏の「ウェブ時代をゆく」を本日読み終え、ちょっとした衝撃を覚えた。
最初に感想を一言で表すとすれば、「ウェブ時代をゆく」は「ウェブ進化論」の続編としてのポストWeb2.0的なインターネットジャンルの書籍ではなく、「ウェブ」という現代社会の「バーチャル・モンスター」を「哲学的」な切り口で批評した斬新な文学作品である。
読み始めて最初に感じたのは、梅田氏の文体の変化である。これまで僕の読んだ梅田氏の作品である「シリコンバレーは私をどう変えたか」、「ウェブ進化論」、「シリコンバレー精神」などの文体とは異なる文体で表現されており、その文体変化の所以を探りながら読み進めていった。
ベストセラーになった「ウェブ進化論」はウェブに身を置くインサイダー的な視点にたって軽快な文体でウェブの進化について展開されており、梅田氏が自ら「ウェブ進化論」で定義している「あちら側」視点での文体である。「あちら側」とは「インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも言うべきバーチャルな世界」(ウェブ進化論 p057)である。それに対して「ウェブ時代が行く」は現実社会からウェブを捉えた文体となっており、ウェブを鳥瞰的な立場で批評するスタイルの文体になっている。これは「こちら側」と表現してよいだろう。こちら側とは、「私たち一人一人に密着したフィジカルな世界」(ウェブ進化論 p056)
さらに文学的な観点から見ると「ウェブ進化論」は梅田氏がこれまでシリコンバレーでの経験を中心に、ウェブの進化を語っている。小説で言えば私小説に似ているだろう。一方「ウェブ時代をゆく」は小説ではなく批評だ。ウェブに身を置くエンジニア、起業家はもとより小説家、哲学者、さらには批評家の小林秀雄に至るまで、実社会の人々の言葉や文献の引用を元に梅田氏のウェブ論を様々な角度から批評している。この批評の文脈は「ウェブ進化論」で示したウェブの進化というテーゼ(命題)に対して2年を経たウェブの現状を弁証法的なアプローチをとって結論付けているといえるだろう。梅田氏がこのような卓越したストーリーでウェブを表現をできるのは、様々なジャンルの書物を読んでいることが伺い知れる。
読後にわかったことだが、梅田氏曰く、メイキング・オブ「ウェブ時代をゆく」で「ウェブ時代をゆく」のルーツを語っている。そのルーツは小林秀雄の名作「近代絵画」をロールモデルとしているとのことである。
(メイキング・オブ「ウェブ時代をゆく」より)
なるほど。確かに読み手に対して「読み手が未知な何か」を言葉(文章)という情報伝達手段で伝えるといった観点では「近代絵画」がモチーフとなっているとも考えられるが、僕も20年近く前に「近代絵画」を読んでおり(実は小林秀雄は僕が最も尊敬する文化人であり、小林秀雄全集を所有している)「近代絵画」に対する印象は、「近代絵画」(新訂 小林秀雄全集 第十一巻:新潮社)の解説で日本の美術史学者の吉川逸治が考察しているとおり、小林秀雄はの批評対象は、広義では芸術という絵画であるとも捉えられるがは、本質的にはその絵画をメタファとして画家の思想であり人生観を批評している。という印象がある。
最後にこのエントリーを書きながら思ったのは「ウェブ時代がゆく」文体はロールモデルとなった小林秀雄ではなく、蓮見重彦や吉本隆明の文体に酷似している。





